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『自信』の本当の意味について [まじめなおはなし]

安曇野全景.jpg


 自分を『卑下』するのと『卑屈』になるのとでは、言葉の違いこそあれその意味するものはほぼ同じだ。自分を亡きものにして相手に必要以上に媚びれば必然そうなるしかない。それだけではなく、自らの尊厳を自らの劣情によって貶めてしまうという意味でも同一視して構わないと思う。そしてこれら二つの言葉の意味するものは、美徳などではなく悪徳かつ他人への悪感情そのものである。その本性は妬み、侮蔑、羨望といった劣情そのものである。
 この他に、自分を相手よりも低い立場に置くという意味では、類義語で『謙(へりくだ)る』とか『阿(おもね)る』といった言葉もある。だが、一見して同じように思える言葉群(語彙グループ)の中にも、根本的に異なる部分がある。
 思うに、
卑下と、卑屈と、阿(おもね)る、という三つの言葉は意味合い的にはほぼ同じグループに入るが、謙(へりくだ)るという語だけは、その意味するものが大きく異なっている。前出の三つの言葉には真がないが、謙(へりくだ)るには、自分を前面に出すことなく、敬意を持って相手を立てるという意志と、他者へのさりげない配慮が感じられる。
 つまり他人に敬意を払いながらも自分というアイデンティティーを失わずに、その主体を保っているという意味だ。それが今回のテーマだ。

 現代の日本人ほど自分というものに自信を持てない民族はいないであろう。

 そして『自信』にまつわる、この卑下・卑屈・阿(おもね)るの三つの言葉が現代日本の世相を推し量るキーワードだと思う。
 旺文社国語辞典第十版を見ると、この「卑屈」と「卑下」と「謙る」と「阿る」は、ほぼ同じ語義となっている。だがこれは明らかな間違いだと思う。
 十年ぶりの大改訂となった、広辞苑第七版は今年になって発売されたが、その最新の広辞苑でも「謙(へりくだ)る」を除いた他の三つの語はほぼ同様の語義であった。つまり自分を殊更低く扱う屈折した心情がそこに見て取れるのである。
 では、その広辞苑第七版で謙(へりくだ)るはどういう記述になっているのだろうか。それを引用して見よう。それによれば謙(へりくだ)るとは『他をうやまって自分を低く扱う。謙遜する』と記されている。
 この意味を自分なりに解釈すれば、『自分ではない他を敬って、(相手が不快にならないように)相手の気持ちを推し量って、敢えて自分を低く扱う』というニュアンスであろうかと思われる。
 これは忖度の正しい使い方の一つでもある。権力に阿(おもね)ることを忖度(そんたく)とは云わないのだ。財務省の役人や内閣府や大臣官房のお偉方や担当者
に聞かせてあげたい。あくまで聞く耳を持っていたらの話だが。
 こうした行為は日本古来の他者に対する礼儀、つまりエチケットのひとつだ。わたしが思うに、そこに「自分を不当に低く扱う屈折した心情」は一切見て取れない。つまり謙(へりくだ)りながらも尚、自分を見失わない「絶対的な自尊心」がそこにはあるように思えてならない。揺るぎない自尊心と言い換えても良い。
 これを『自信』と人はいう。
 一方で、日本で蔓延している卑屈になったり卑下する感情は、日本人の過半が無くしてしまったか忘れてしまった『己を全うする』という信条や信念が著しく低下、もしくは欠落した状態であるといえよう。そこに現代日本の精神文化における大きな病巣があるとわたしは見ている。
 卑屈さの底にあるのは薄っぺらい自尊心だ。問題はその自尊心が相手によって相対的に変化するということであろう。相対的に変化するものをわたしは信条や信念として認めない。
 自分より権威のあるとおぼしき者や、財産や名誉や名声がある相手に対しては卑屈になり、奇妙な笑顔を見せておもねる人々をわたしはどれ程多く見て来たのだろう。そういう者こそ、一旦自分より劣ると見做した者には露骨に見下した態度を取り、言葉もぞんざい横柄になるだけでなく、殊更その者の前で踏ん反り返ったりするのだ。貧困に喘ぐ人を馬鹿にしたり、自分たちと違う人を集団で苛める心情はこうした劣情の表れだ。こういった人達は自分の醜さに気づきもしない。匿名性の高いネット社会がそれに拍車を掛けていると思われる。いまや、誰だか分からなければ人を攻撃したり貶めるのに何でもありの世も末、つまり末世の時代が到来している。他への攻撃性だけが際立ち、そこに他者への思い遣りや人としての優しさはない。
 今という時代は「絶対的価値」が否定され、対象によってものごとが変化する「相対」という考え方といおうか「代物」が罷り通り、人々の集合体である日本という社会そのものを蝕んでいる。世界の趨勢もまた日本と同じであるという。
 だが果たしてそれで良いのだろうか。昔は神とか仏様が絶対価値を持つものとして信じられて来たが、現代は無神論者や無宗教とか呼ばれる人達が大多数を占める。そして、絶対的価値や絶対的存在などないのだと大多数の人々が信じているように思われる。
 現代人の過半は「正義って何?」と、それを唱える人達を嘲って憚らない。
「見る人によっても見る角度によっても、それは正義にもなるし、悪にもなる」といって相手を小馬鹿にし、論破しようとする。
 つまり、すべてのものごとは相対的に判断されると主張している訳である。実際にわたしもソネブロで四名ほどそういった輩に遭遇している。一名はディベート大好き人間で、その能力を自画自賛したいが為に、たかがブログで自分の能力が他人よりいかに論理的で優れたものであるかを訳の分からないデータを並べ立てて自慢吹聴するという愚か者だった。だから自分が何者か分からせる為にその本性を暴いてあげたら、途端に他のブロガーの同情を買う手段に出た。自慢するなら論理には論理で返すべきだが、それでは敵わないと知った訳だ。他人より優れていると嘯く者が、その自分より劣っているという他のブロガーに泣きついた訳である。それでも気づかいなところが愚か者の愚か者たる所以か。「自慢高慢馬鹿のうち」ということわざを知らないのだろうか。
 同類である残り三人は、男女のストーカーだった。いやはや四年もの間、事ある毎に現れてはわたしを揶揄し、誹謗中傷数知れず。執拗に纏わり付いていた。いわく、正義漢ぶるなだとか、自分のしたことが分かっているのかタダじゃ置かねぞ等々、脅しや誹謗中傷数知れずでしたね。
 ずっと見ていれば、どちらの云っていることが正しいのかは明白だろうとわたしは思っていたので反論することもなく静観していましたが、そんな嘘で固めた恫喝紛いのコメントを真に受ける人間が、それこそ大勢いるのには少々驚きました。いやはや、正邪善悪の区別も峻別もできなくては世は末です。すべて、自分で考える頭を持たないからそうなる。自信がないから、人の意見やその場の雰囲気に飲まれ流される。
 その後、男はわたしがその所属する企業のコンプライアンス部門に悪業を質した事で、すべてが会社にばれてしまい僅か一年で撤退した。「バーチャルな世界の出来事をリアルな世界に持ち込みやがって、覚えていろよ」などと強迫メールを送りつけて来たが、それまで遣っていた事が明らかになり、もし訴えられれば実刑は免れない。だから攻撃も竜頭蛇尾で終わった。所詮それだけの人物である。だが、女のうちの一人は主婦で相当暇を持て余していたのか、はたまた元々そういう性癖なのか、その後三年もの間わたしに纏わりついたのだ。
 この男女等が執拗に攻撃して来た事情は薄々分かるだろうから敢えて書かないが、実に下らない理由で始まったことをあとで知った。複数の人達による人の道に外れた人間関係を解消する
ために、何ら関係のない多くのブロガーを巻き込んで、自分たちの抱える他人には大っぴらに出来ない問題の解決を図ったのである。「え、そんな理由で・・・」と、その事情を知った時には唖然としたが、思えばそれまでに相当な人達が被害に遭っていた。
 何とも詰まらない理由で他人を巻き込んだものだ。だが、その攻撃性は顕著で、執拗で陰湿で、狡猾な手口は飛び抜けていたように思う。それが厭になって事情を知った多くのブロガーがソネブロを去って行って、最後に残ったのがわたしという訳だ。
だから執拗に纏わり付かれたのである。
 正義が立場によって変わると言い放ったのは、正にこの御仁であった。

 しかし、そんなことで意味や意義が変わってしまうものを本来『正義』とは云わない。

 思うのだが、そう主張する人達に限って絶対的な価値観として、他人より多くの資産とか金銭的優位を追い求める傾向が強いように思われる。そんなことが根底にあるから他人を蹴落としてでも高収入を求めるのだ。金銭やその利潤・利益や学歴や人脈などといったものに、絶対的価値を見出しているようにわたしには見受けられるのだ。現にこの女もそうであった。自分を棚に上げて、人のあるべき姿とか倫理などを他人や出身校の後輩に説いていたのだから恐れ入る。
 この様な「俗物さん」たちは、競争社会とか、勝ち組負け組、弱肉強食とか、相対的価値観を持つ人達は好んで使っているようにも思える。そしてその価値観の根本にあるのは「他人に対する優位性」という驕慢な態度だ。絶対という存在と価値観を馬鹿にし、相対的価値こそ真実を表すと信じて疑わない人達が、一方ではこんなものを絶対的価値だと肯定しているのである。資本主義とは一面、拝金主義だという真実をこの人達は知らないのだろうか。しかもそれは幻想だ。
 そもそも資本主義と民主主義は完全な合一を見ない不完全な社会システムである。資本主義とは、強者が弱者を自分たちの作ったルールによって拘束し、その弱者から労働力や正当な対価を搾取する事から成り立っており、民主主義の根幹にある自由・平等という原則に相反している。だから功利的(打算的)な者の多くは民主主義ではなく資本主義の原理に基づいて行動するのだ。民主主義では喰っていけないとこういう人達は考えているらしい。
 もし資本主義と民主主義が両立するならばそこに相対関係も成立するであろうが、現実には対立関係だけがやけに目立つだけで、今のところ理想とする補完関係にすらなっていない。だから金銭などの物質主義(資本主義)に多くの人達が価値を見出してしまうのだろう。
 しかしよくよく考えてみれば金銭などの物質的価値は永久不滅ではない。
 そして人間という生き物は、最終的には相対的な価値観を心の拠りどころにはできないのだ。不動不変の絶対的存在でなければ心の安寧は訪れはしないだろう。だとしたらそれは物質ではない。ひとりひとりを支える唯一無二の精神的支柱ということになろう。
 そこから現代人が求める『絶対的価値観』というものの姿が見えて来る。
 そしてわたしはこう信じている。現代人に本当に必要なのは『自信』であると。

 自分を尊敬し、自分を大切に扱うのが本当の自信というものだ。自分を尊敬し、大切に扱う人は正義の人たり得る。何故ならそこに不正はないし、人を貶める感情が芽生えるはずもないからだ。自分を信じるからこそ、自分を裏切れない。尊敬するからこそ、大切にするからこそ、自分を欺いたり騙せないのだ。その一方で、自分と同じように他人を敬い尊重し得るのである。これは後述する相田みつをの名言(「箴言」もしくは「格言」と云っても良い)を読めば一目瞭然だ。
 それこそが「正義」の源である。昔からある概念でいえば『善』という理念だ。そしてそれらは自信という絶対的存在があるからこそ生まれ出るものだ。思うに自分を尊敬できない人に、人の為に大きな事を為す力も能力も、天はけして授けはしないだろう。
 せいぜい他人に疎まれながらも私利私欲に走って小金を貯めるか、陰に回って妬みや羨望といった劣情に身を任せ、他人への流言飛語や誹謗中傷を繰り返すのが関の山だ。
 そうと知ったならば、相対的価値観をもとに「尊大」と「卑屈」の間を行き来していた者等は、これより先は過去の行いを深く反省しつつ、己という絶対的価値、つまり『自信』を取り戻すべく最大限の努力をすべきであろう。
 最後となってしまったが、もうひとつの考え方をここで示したいと思う。
 それは『他信』ということだ。しかしこの言葉は「自信」の対義語ではない
。そして自信に相対する言葉でもない。

 これを理解するために、相田みつをの残した名言(箴言)を下記に引用する。


『いのち』

 あのね
 自分にとって
 一番大切なものは
 自分のいのちなんだよ
 だから
 すべての他人の
 いのちが
 みんなたいせつなんだよ

          みつを

 わたしのいう「他信」とはこの言葉に通じる概念です。
 簡単にいえば『自分を信じるように他人も信じなさい』ということです。
 つまり『自信』も『他信』も同義語であり、絶対的価値であり、その理念です。
 そして、現代人の過半が肯定する相対的価値観には真実も内実もないと思っています。
 ところでわたしは、基本的には人は疑って掛かるという方です。ですから本来は「不信」ともいえるのですが、その人と深く関わり、この人ならばと一旦思ったならば、その考えを生涯変えることはありません。たとえ、その人が批判の矢面に晒されてもけして見捨てず、まかり間違えてその友人が罪を犯してしまったとしても、友達であることをけして止めたりはしません。そしてそれが自分に課した責任だと思っています。人を信じるというのは本来そういうものなのです。ですからわたしは信用や信頼の安売りはしません。人ひとりが賄える、何かを信じるという行為のキャパシティとエネルギーは限られていますからね。
 私の親友は高校時代のクラスメートだった、たった二人しかいませんが、わたしにはそれで十分です。そしてお互い淡々と接してそれで十分に満足しています。会いたい時に連絡を取って会い、共に語らって飽きることがない。万難を排してまで会おうとは思わないが、それを友は許してくれるし、逆に友の都合がつかなくても恨んだりはしません。また近いうちに会いましょうと約束をし、それを違えないだけです。上善は水の如し、死ぬまでこの関係は変わらないでしょう。
 若い頃は友人が二人だなどと職場で話すと「オマエ友だち少ねぇなあ。性格暗いしな」などと随分とからかわれ揶揄もされましたが、それで良かったのだと思います。あの頃わたしを揶揄し嗤っていた人達の多くは、今は会社も変わり離散して音信不通だと伝え聞いています。所詮その程度の人達なのです。友はどこに在ろうと縁が切れたりはしません。


 先日、『日本の黒い夏【冤 enzai 罪】』という松本サリン事件における史上稀に見る報道被害を描いた映画をGYAOで見ました。(現時点でまだストリーミング配信されていると思います)
 その中で寺尾聰扮する、報道被害に遭われた河野義行氏(映画では「神部(かんべ)」という名に変えられている)がエンディングに近いシーンでこう述べていました。

「今回の事件で、私は人間の醜い部分と優しい部分を見たような気がします。大勢の人に助けられたし、友人は神部がやっていないというのなら、やっていないと最後まで私を信じてくれました。世の中そんなに捨てたものではないと思います。私は、事件が起きたあの瞬間、妻と一緒なら死んでもいいと思っていました。二人とも命を取り留めた以上、私は妻の回復に全力を傾けるだけです。(ここでふっ、とため息)もう欲しいものは何もありません。妻と共有できる時間と空間がこの世でもっとも大事なものに思えます。・・・云々」

 寺尾聰扮する神部(河野氏)は、そのインタビューに淡々とした言葉と、静かな眼差しで答えていました。それだけでなく、どんな嫌がらせに遭っても、周りから口汚く罵られても最後まで信じてくれた息子と娘がいたから、そして入院中の妻の存在があって、その回復を心から願っていたからこそ、あの絶望の深淵の只中でも河野さんは挫けることなく、警察の人権を無視した執拗な尋問や、罵倒や恫喝や脅しにも耐え、最後まで信念を曲げることなく、こうして生きて来られたのだと思います。
 それと同時に、執拗な嫌がらせ電話と剥き出しの敵意、強迫紛いのメール、家屋への投石とか、人はああも愚かでいとも簡単に残酷になれるかと思うと、とても悲しい気持ちになりました。
 わたしも実社会で四十代の終わりに少しばかり同様の経験がありましたので、まるで自分のことの様に感じ取ることが出来ました。わたしもあの時、相手の理不尽なパワハラに屈しなくて良かったと思っています。直接の上司に、「得意先と取締役には勝てっこないので謝ってしまえ」と云われ、それを拒んだが為に閑職に追い遣られたりもしましたが、当時も会社を辞めて十三年経った今も悔いるところはありません。
 前述のストーカーに
は逆恨みで相当な嫌がらせを受けました。氏名住所といったプライバシー、顔と住居と家の周りの写真、学歴、資格、職歴は云うに及ばず、虚実を取り混ぜた誹謗中傷をその時にネット上に拡散されたりもしました。このストーカーは名古屋近郊に棲んでいましたが、たぶん私の住んでいる船橋市の近くにも仲間がいたのだと思います。愚か者はどこにでもいるものです。しかしいちいちそれに反応することもなく淡々と過ごしていれば、いつかそんなものは下火になります。わたし自身は警察にこのことを相談したことはありません。愚か者と特殊詐欺は相手にしないに限ります。そして時が経てば些細なことで済んでしまうものです。話を元に戻しましょう。もうそろそろ今回の記事も終わりに近づいています。

 映画のそれらすべてを見終えた時、わたしの周りでこれから何かあったとしても、若い時のような気概を持ち続け、絶望の淵に立ってもけして挫けなかった河野氏や、その友人や家族の様な人でありたい。そう振る舞いたいと強く願った次第です。


『日本の黒い夏【冤 enzai 罪】』のラストシーンが忘れられません。わたしはこの地方に三年前まで単身赴任をしておりましたのでよく存じております。
 あれはたぶん安曇野の白鳥湖で撮られた夏のシーンだと思います。寺尾聰扮する神部と、車椅子に乗って無表情に遠い視線で水面を見詰める、妻役の二木てるみの無言の演技が胸を打ちます。その時、夏の積乱雲の雲間から陽の光が差し込み、妻の顔が神々しく照らされます。それから僅かに上向きに妻が顔を上げたところで春の桜のシーンに切り替わり(たぶん拾ヶ堰【じっかせぎ】辺り)、やがて入道雲と青空の下で青々とした葉が繁るニセアカシアの木が映し出されます。
 ああ、ニセアカシアの花の頃は、高瀬川や犀川の河川敷はこの花の色で白く染まり、そこから大量に発生する黄色い花粉には、随分と悩まされたものだとあの頃を想い出していました。
 そして何故かひとりでに泪が零れて来たのです。

 最後に中井貴一扮する主人公であるテレビ局の放送制作部長が、この冤罪事件をテーマに一夏をかけてドキュメンタリービデオを制作していた男女二人の高校生の放送部員を見送り、夕焼けに染まる松本城の堀端を一人歩いて去って行くシーンで映画は終わります。

 夏の日の一日の終わりを告げる、もの悲しい蜩の鳴き声が辺り一帯に響いていました。


 以上。


 創作活動の合間に筆休めで書いてみました。お気に召されたでしょうか。
 ・・・またしばらく休眠するかも知れない症候群です。締め切り間近なのでね。
 でも、すぐに目覚めるかも知れないので悪しからず。
 生きている以上アンテナを休めることはないのでね。これはもはや習性です。アハ!


 ではでは皆さまごきげんよう。さようなら。


皆に惜しまれて.jpg



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U3

☆★☆皆さまへ☆★☆
 昨日お彼岸で父の墓参りに行って来ました。先祖の墓は会津にありますので、ここには父しか眠っていません。父とは様々な想い出がありますが、殆どが対立の構図に彩られお互いに理解し合えたのは父の最期の頃だったと思います。あの頃は父も穏やかになり、わたしも過去のわだかまりは忘れることにしたのです。
 生前の父とは見た目も性質も正反対でしたが、最近は父に似てきたと言われることがままあります。それでけして悪い気もしません。何やかや言おうとやはり父子なのだと思います。
 父の命日は来月中旬、二十四節気でいえば「清明」の終わり辺りです。父の死から十三年目(十三回忌は昨年です)の命日はもうすぐです。
by U3 (2018-03-20 09:12) 

グリーン

長峰山☆
by グリーン (2018-03-20 20:27) 

U3

☆グリーンさんへ
Yes!
by U3 (2018-03-20 21:05) 

ゆうのすけ

そうでしたすっかり忘れていましたが 船橋西武は
閉店したんですよね。先々週あたりか船橋駅に用があって行った時に
見て来るのを忘れてました。私が生まれた年の秋にオープンしたのですが これからは私の年だけが増えてゆくことに・・・。^^;
まだまだ春浅い感じですね。近所の公園もソメイヨシノのつぼみが大きくなってきているのにちょっと震えているような感じがしちゃいました。今週末くらいには!✿
体調崩されませんように!^^
by ゆうのすけ (2018-03-20 23:28) 

U3

☆ゆうのすけさんへ
 閉店セレモニーはありませんでしたが、閉店には立ち会いました。シャッターが閉まると、皆拍手をして見送りました。船橋駅前はだいぶ変わりました。
by U3 (2018-03-21 09:04) 

やおかずみ

パノラマ写真、素晴らしいです。腰の具合どうですか。
お大事にしてください。
by やおかずみ (2018-03-21 10:42) 

なかちゃん

日本の黒い夏「冤罪」を、ツタヤの定額リストに入れました ^^
早速見てみたいです(^^)

by なかちゃん (2018-03-21 13:36) 

JUNKO

いいお話を読ませていただきました。
by JUNKO (2018-03-21 17:38) 

旅爺さん

死ぬこと以外はかすり傷だそうなので生きて頑張ります。
by 旅爺さん (2018-03-22 09:02) 

ぼんさん

パノラマ写真とても素敵です。
読み応えのあるお話を読ませて頂きました。

by ぼんさん (2018-03-22 10:19) 

U3

☆やおかずみさんへ
未だ治らず。近々取材旅行に出掛けなければならないんですが。
お気遣いありがとうございます。
by U3 (2018-03-22 10:25) 

U3

☆なかちゃんさんへ
是非観た感想を聞かせて下さい。
by U3 (2018-03-22 10:26) 

U3

☆JUNKOさんへ
 貴ブログの写真、被写体の切り取り方が良いなと思って観ていました。わたしは無造作に撮る方なので。
by U3 (2018-03-22 10:31) 

U3

☆旅爺さんへ
 でも苦しむのは厭でしょう(笑)
by U3 (2018-03-22 10:32) 

U3

☆ぼんさんへ
 大阪の街は行ったことがないんですよ。正直行きたいとも・・・(笑)
by U3 (2018-03-22 10:33) 

nikki

コメントありがとうございました
パノラマ写真を縦にのせるのもアリですね。スマホで横にすればみられる。

百貨店の時代は終わりに近づいてるのかもしれませんね。
少数しか生き残れないのかも。
by nikki (2018-03-22 12:48) 

U3

☆nikkiさんへ
 まさに世の中は栄枯盛衰、確かなの無常ということだけです。そして、だからこそ自分を信じる事が今一番必要とされることなのではないでしょうか。
 このパノラマ写真、どんな高級高性能カメラだとしても、既存のカメラでは写せません。元の画像のデータ量は掲載画像の25倍です。もし元のままの画像容量で掲載できたとしても、通常のノートPCなどではメモリー不足でデータを画面に映し出すことすらできません。
by U3 (2018-03-22 14:40) 

mirro

物事は流れていきますし、この宇宙もまたどこへ行くのかと想うとき、
今感じる生を大切にと思いますが、日々に紛れたりします(;´∀`)
凄いパノラマ写真ですね、左の雲の動きがいいなぁ~と思っています。
by mirro (2018-03-22 17:34) 

久遠

こちらのブログにご訪問とコメントをありがとうございました。

ワタシも友達の数は少ないです。
一方通行な人はかなりの人数いるのですが(笑)。

体調はいかがでしょうか?

妙な陽気を乗り切って、すっきり「春」を感じられると
楽しいのかなぁと思ったりしています。
by 久遠 (2018-03-22 18:17) 

U3

☆mirroさんへ
 自分を見失わないって大切ですね。ドイツの哲学者、ニーチェは『まず初めに自分を尊敬することからはじめようといっていますね。だからこそ自分を信じることが大切なんだと思います。
 ここの風景本当に素晴らしいです。
by U3 (2018-03-22 20:06) 

U3

☆久遠さんへ
 自分の時間を大切にしたいので、お付き合いは程ほどにというのが私の流儀です。
 体調は万全じゃないです。腰痛が再発したし、目が廻って頭痛はするし。・・・
 根気がなくなってなかなか執筆活動が捗りません。こんな時は頭が多少痛くても気分転換に読書かな。今日は横になって、俳句の解説本と短編ミステリーを計3時間ほど読んで後は仕事に集中しました。
 それと以前購入た4冊の本に手作りで紙のカバーをつけました。相田みつをのカレンダーを切ってうまくカバーに仕立てました。これは中学生の頃からの習慣ですね。もちろん既製品の布製(ファブリック)カバーも使いますが、小洒落た包装紙などを使って手作りカバーにしたものの方が好きです。結構手に馴染んでいいですよ。
by U3 (2018-03-22 20:19) 

たいへー

「自信」があるかどうか、自身に問いかけてみました。
・・・答えが出てきませんでした。 先は長い。^^;
by たいへー (2018-03-23 07:47) 

U3

☆たいへーさんへ
 記事読ませて頂きました。
 尻が大変良かったです。
by U3 (2018-03-23 08:49) 

johncomeback

拙ブログへのコメントありがとうございます。
「JA常陸 長砂直売所」は県外からも干し芋好きが
多く訪れるようですね。僕は2年連続で行きました。

by johncomeback (2018-03-23 12:01) 

U3

☆johncomebackさんへ
 干し芋よりもどちらかといえばつくば市の「蔵出し焼き芋かいつか」の焼き芋の方が好きだったりします。
by U3 (2018-03-23 16:13) 

プリスキラ

お久しぶりです。大変なご苦労をされたのですね。私もブログ関係で嫌がらせをされ、身の危険を感じ、警察に相談したことがあります。でも危険を感じるだけでは警察も何もしてくれません。お強いですね。穏やかに人と交流し、書くことを楽しみたいものですね。
by プリスキラ (2018-03-23 21:49) 

U3

☆プリスキラさんへ
 実害を受けた名古屋方面の被害者は被害届を出し警察に受理されましたよ。強迫メールとか色々証拠はあったのでね。それに比べれば私の被害など大したことはありません。
by U3 (2018-03-23 22:50) 

ファルコ84

似通った言葉にも微妙な違いがありますね
自分の成す事には、それ程自信はありませんが
考えだけはポジティブにと思っています。
by ファルコ84 (2018-03-23 23:39) 

U3

☆ファルコ84さんへ
 ポジティブと思ってはいても、往々にしてネガティブになるのが人というもの。ご注意あれ。
by U3 (2018-03-24 06:39) 

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